建て前と本音

俺がつとめている会社の

所属している部が、利益が良いもんで

部からレベルアップすることになった。

 

係長は課長へ。

課長は部長へなるわけだ。

 

で。

うちの会社は技術を売りにしている

会社なのだけれど

管理職って、技術ないよ。

 

過去の技術はもってるけど

イマの技術はもってない。

 

愛想良くて

話すのが得意で

聞くのも得意で

顧客から仕事を引っ張ってこれる

そういうひとが、『管理職』にいくよ。

 

そういうひとだらけになったら

技術を売りには出来なくなるね。

詐欺だよ、そんなの。

 

技術を売りにしてるってことは

愛想がなくて

話すのが下手で

聞くのも下手な人でも

技術があれば、高給をとれるって

子とじゃないのかなあ。

 

利益重視っていうなら

社是から『技術』って言葉を

はずさなきゃ、詐欺だよねえ。

 

大した技術もなく

愛想とコミュニケーションで

仕事をとってこれる人が

気の弱い人が多い

技術のある人のケツをひっぱたいて

仕事をさせているって

なんだよ、それ? ってなるよ。

 

建て前と本音。

くだらねえことが

世の中にあふれている。

 

不変の人

ビッグマネーをほしがっている人

今の生活から脱却したい人

なんでもいいけど

そんなようなことを夢見ていて。

 

にもかかわらず、何も始めない、何もしない

そういうひとを

不変の人と俺は呼んでいる。

 

愚痴だけ言いながら

自分の人生を0.1ポイントでも

向上させるための努力をしない人々は

存在する。

 

理由はたくさんあるんだ。

 

妻が居るから

子供が居るから。

つき合いがあるから。

睡眠をとらないと仕事が滞るから。

 

不変の人。

批判はしない。

 

そこに居続けることだって

並大抵の努力ではないからね。

 

下に落ちないことだって

努力を要することだというのは

忘れがちなことだから。

 

そこに居続けることは

すごいことなんだ。

 

上を目指すのは

難しいよね。

 

それこそ血を吐くような努力。

言葉にすればなんてことないことを

やれるひとじゃないと

今以上にはなれない。

 

小学生の時に

サッカーで一番うまい奴は

放課後に毎日、グラウンドで

練習していたよ。

 

俺たちは缶蹴りをやってたけど。

 

何歳になってもさ。

そういうことなんだよ。

 

 

 

収入がどーだこーだ、と言う前に

収入がどーだこーだ、と言う前に

自分がどれだけ人の役に立っているかを

考えてごらん。

 

お金ってのは

より役に立つ人に多く支払われ

役に立たない人には支払われないものだ。

 

それは、実力でなく

身をおいている場所、すなわち

立場と言うものも当然影響するよ。

 

でも、立場や役職みたいなものを

勘案する前に

やはり、自分がどれだけ人を幸せに

しているのだろうか?

 

ってなことを、考えて

明日はもっとよりよくなろう、と

日々、自分を磨いていくことが

大切だよ。

 

それは突拍子もない夢でもないし

地道にコツコツやっていけば

きっと、あなたの収入も上がるでしょう。

 

そんなことよりも

たった一度の人生で

ひとを、より多く、よりたくさん

幸せにできた方が

できないよりは、いいでしょう?

 

淡々と、黙々と

日々、そんなことを考えて

人を幸せにする人を

どうして、ないがしろにできるだろうか。

 

収入が、あがる、さがる、なんて

どうでも良いことで

 

人間として生まれたからには

人間の美徳みたいな物

積んでいきたいじゃないですか?

 

悪人になるより

善人になるべきなんですから。

 

そういうことを、

大事に、大事にしていこう。

 

愛想笑いは通じないけど

嫁に愛想笑いは通じない。

愛想笑いが苦手な俺としては

とても良いことなのだが

 

通じないってのは

俺の心中洞察がうまいということで

俺が愛想笑いしてるときには

本当は楽しくもないのに笑ってる

と見抜かれているということだ。

 

で、昨日。

嫁が作った煮豆が

とてつもなくうまい。

 

こんにゃく、にんじん

とりにく、まめ、こんぶ、の

シンプルな煮豆だ。

 

そして、今日は一段と味がしみて、うますぎる。

 

うまい、うまい。煮豆うまい。と

喜んで食べてたら

どうも嫁の機嫌も良くなったようだ。

 

このあたり、どうも不思議で

俺が本当に、リアルに喜んでいるのが

的確にわかっているんだろうなと

不気味さとともに思う。

 

女というものは

心を読む術に男よりも長けているのかも知れない。

 

普段は不器用に衝突したり

いさかいがある。

そんなとき、苦手な愛想笑いでもして

うまく取り繕えたらと思うこともある。

 

でも。

変に飾らず、素直に生きていくのも

悪くないな、と思った。

 

趣味は現実を支えるための滋養

映画や小説、漫画などが
大好きな人たちは
自分の人生がうまくいかないもんだから
そういったものを鑑賞して
現実から逃避している。

 

なんて、論調をどこかで聞いた。
果たしてそうだろうか?

こんな論調は正直ちょっとまとはずれで
スポーツが趣味の人たちは
現実を忘れるために
汗を流して打ち込んでいるってことに
ならないのか? っていう。
スポーツしてりゃ、健全だ!っていう
頭の悪い論調だよ。
(経験上、体育会系ほど、陰湿ないじめが多いよ)

こんな論調は
文系的趣味のバッシング以外の
何物でもない。

まあ、ただ。
スポーツだろうが
文系的趣味だろうが
趣味に没頭するってのは
良かれ、悪かれ、現実逃避的な
側面はあるとは思う。

現実逃避は悪なのか?
っていうと、俺の意見としては
悪ではないが、現実逃避しても
現実問題、シアワセにはならんだろう。
って意見かな。

現実は戦わなきゃ。
人と戦い、自分と戦うんだよ。

趣味はそういった意味での
滋養みたいなものと、捉えている。

滋養は大切だけれど
摂りすぎると
太ってしまい、不健康になるよ。

 

趣味は現実を支えるための滋養。

そんな捉え方が

なんとなく良いんじゃないかなあ。

 

自己卑下するにはまだ早い。

思えば中途半端な人生を送ってきた。

 

絵を書くのが好きだが、バイトしながら漫画家を目指すほどの勇気もなく。
小説もどきも書いてみたが、バイトしながら小説家を目指す勇気もなく。
歌が好きだが、バイトしながらバンドをやる勇気もなく。
仕事でデザインをしているが、特筆するほど技術はない。
仕事でプログラムをしているが、特筆するほど技術はない。
競馬が得意だが、プロというわけではない。
パチンコが得意だが、プロというわけではない。

 

……などなど。


何もやってない人よりはそりゃ上手だけど
スペシャリストってほどではない。

そういうのを『中途半端』と定義するならば
割合、世の中ばかり中途半端な人ばかりなのかも知れない。

 

でも、それは悪くない。
いや、むしろ良いかも知れない。

 

組み合わせてみればいいさ。

 

自分の取り柄を一つずつあげてみて
組合せれば、なにか面白いものができるかも知れない。

 

たとえば、
小説を少しかけて
プログラムを少しできて
絵をちょっと描けるなら
サウンドノベルゲームを作れるよ。

 

競馬が好きで
プログラムが少しできるなら
競馬予想のシステムつくれるよ。

 

音楽が出来て
小説が描けて
デザインできるなら
素敵なマニアックな音楽雑誌なんか作れるかも知れない。
電子書籍とかね)

 

まあ、例を挙げればきりはないんだけど
要は、今まで、自分が生まれてきて
やってきたことを

 

ああ、俺ってば、中途半端だな。

 

なんて否定するよりは

 

むしろ、あれこれ手を付けておいて良かった!

 

と思うようになった方が
色々と良いことづくめだよ!

ということがいいたい。

 

自己を卑下するには
まだ早すぎるぜ。